おまけの人生〜3.11から5年〜
3.11から5年が経ちました。
あの日、1歳の息子をベビーカーに乗せて新宿に来ていました。
当時、息子は電車を見るのが大好きで、保育園入園の買いものがてら、サザンテラスから電車を見せていました。
急に、立っていられないほどの激しい揺れに襲われました。
サザンテラスの橋の上だったので、揺れを余計に大きく感じたかもしれません。
あの時の空の色忘れられない。
ビシビシと音を立てて歪む窓ガラス、ぶらんぶらんと揺れる高層ビル、窓ガラスが割れたところもあり、激しい揺れに大きく目を見開いている息子を抱き寄せ、私自身が恐怖を隠せませんでした。
新宿駅に入ってきた電車が次々に止まり、静寂に包まれたように駅の機能が停止しました。
そして度重なる大きい余震と悲鳴。
そして、デパートの中で他の方からワンセグ携帯を見せてもらったときに、押し寄せる津波の映像に目を疑いました。
波に呑み込まれる未曾有の世界。
小さな画面に映っている世界はとても現実とは思えませんでした。
なんとか明け方に動き出したぎゅうぎゅう詰めの電車に息子を抱っこして乗って、長い長い時間をかけて、駅でやっと夫に会えて、ホッとして帰宅したのも束の間。
数日後に、テレビに建屋が吹っ飛んで消えた原子力発電所の映像に呆然としました。
「子どもを連れてこっちに逃げておいで。続々と関東の人が避難してきてるよ。」
福岡の叔母が連絡をくれました。
子どもを守るためにすぐにでも行きたいけれど、事業を立ち上げたばかりの夫や、近所に親戚の子達もいるのに、私と息子だけ逃げることはできない。
そして4月1日から息子を保育園に預けて仕事復帰しなくてはいけないことを思うと、福岡に行くことはできず、家に息子と引きこもって泣くことしかできませんでした。
震災前はたまにしか聞こえなかったのに、入間の自衛隊基地から飛行機やヘリが家の上空を昼も夜も行き交う音が絶えない。
余震は頻繁に続き、息子はその度に泣いて、生きた心地がしなかった。
近くのスーパーに行ったら買い占めで棚のものがほとんどない。
報道では葛飾区の金町浄水場で200ベクレルを超える放射能が出たとか。
水も売り切れで手に入らない。
もともと設置していた浄水器だけが頼りでした。
本当に欲しい情報がテレビや新聞からは得られず、パソコンにかじりつきました。
「ただちに」なんて、1歳の子の前ではまったく意味のない言葉。
そして原発事故を覆い隠すような計画停電と交通機関の大混乱。
便利だと思っていた都市機能はなんて脆弱だったのかと初めて知りました。
地元のママ達とつながって、一緒に子どもを守る会を立ち上げて勉強会をしたり、「NPO法人チェルノブイリへのかけはし」の代表の野呂美加さんをお呼びして講演会を開いしたりしました。
野呂美加さんは、3.11後の私たちの人生は『おまけの人生』と仰っていました。
地震も津波も原発事故も、他人事ではなく私たちも紙一重で命を落としていたかもしれない。
特に原発事故はいくつもの奇跡と作業員の方の精魂を捧げる努力がなければ・・・例えば風向き一つ違っていても首都圏は壊滅的な被害を受けていたでしょう、と・・・。
何年も悩んだあげく、仕事を辞めて、息子を連れて西に行くことにしました。
真庭に来たら震災後ずっとひどかった息子の咳がピタリと治まった。
すいぶん遠くまで来てしまったけれど、息子が雪遊びや地域のだんじり祭りを楽しんでいる様子を見ていると私も元気になる。
夫と離れ母子での生活は決して楽ではないけれど、収入が減っても以前ほどお金がかからない。
家賃も保育料も以前よりもずっと安い、新鮮な野菜をいただいたり、澄んだ空気と水もある。
日々表情を変える美しい山の景色と窓辺に遊びに来る小鳥たち。
何よりも地域の人達が優しい。
親戚も友もいないところに来たけれど、こちらに来てから仲良くなった友人や地域の人達に日々支えられています。
それでも今もふと思うのです。
育児休暇中、親戚の子達といつも遊んでいたあの日に戻りたいと。
3.11がなかったらきっと真庭には来ていなかった。
きっと今も保健室の仕事を続けて、満員列車に揺られていただろう。
でも、あの日を境に、価値観が変わった。
私にとって本当に大切なのは物質的な豊かさや便利さじゃないことが分かったから。
テレビを見ると何事もなかったように娯楽番組が流れて、人々の記憶から忘れ去られようとしているけれど、先日の3.11の古館さんの報道ステーションを見ると、甲状腺ガンの子どもは今も増えて続け、被爆を気にして外で遊べない子達もいる。
5年経った今もなお復興とはほど遠いのではないだろうか。
母子移住した私のことを大げさだと笑う人もいるだろう。
逆に移住したくてもできない家庭もあるかもしれない。
移住という選択がどうだったのか、今は良かったと思うけど長期で考えたらどうなのか私もいまだに答えは出ていません。
食べものに気をつけている家庭もあれば、気にしない方が精神衛生上良いとしている家庭もあるだろう。
それぞれの家庭が、それぞれの物差しで折り合いをつけているのだから、皆違って当然だと思う。
我が家も夫婦で何年も話し合って決めたことだし、これからどうなるか分からないけれど、また迷ったらその時考えればいい。
せっかく神様からいただいた「おまけの人生」だから、大切に大切に、後悔のないように精一杯輝かせたいと思うのです。
あの日を自分の中で決して風化させることなく、犠牲なった方々へ祈りを。
そして未来の子ども達へ幸あれ。